我々は、どのように人生を全うすべきか?
その昔、生命の保障が危ぶまれていた時代、人は生き方についてどう考えていたのか?
大げさでなく、古代ローマ時代から、人がそれこそ、生命の保障が殆どないに等しい時代があったはずだ。
日本においても、江戸時代でさえ、戦国時代でも、そして昭和の時代であれ、そして、この現代も世界のどこかで、生命の危険が日常的に存在していた。
唐突な理由のない生命の危機もあるであろう。
もちろん常に生命の危機が溢れているからといって、そのことを看過するわけではない。
しかし、生命の危険から離れた時代、暴力の極端に少ない、安全な時代、国であるからこそ、我々は生き方や人生の最後の迎え方に対して、非常に敏感になっているのではないか?
日常の安全が保障されていない時代、場所、突然に生命の危機がやってくる時代、その時、その場所で、生き方や人生の最期の迎え方というものをどのように考えていたのか?
日本でも、切腹という風習があり、それが美徳とされていたと言われる。
現実にはその時にも、切腹が本当に美徳であったのかはわからないし、どのような空気感で、人生の最後を感じていたのか?それすら想像が困難だ。
人生観を揺さぶる映画・ドラマ
そして大体、評価は賛否両論となることが多い。
映画で、一つ見やすい映画を上げるならば、「世界一キライなあなたに」という映画をおすすめする。
また、ドラマとしては、HBO のROME[ローマ]をおすすめする。
『ROME[ローマ]』は、アメリカ合衆国のHBOとイギリスのBBCが共同制作したテレビドラマである。総制作費は200億円以上、制作期間は企画から撮影終了まで約8年という当時としては破格のものである。ローマ軍第13軍団の百人隊長ヴォレヌスとその部下の軍団兵プッロを中心に、内乱期のローマ共和国が描かれている。ドラマであるため、細部のストーリーは史実とは異なる。日本ではR-15指定相当。
2010年公開に向けて映画化される予定であると報じられていた。しかし2016年10月現在続報はない。
引用:Wikipedia
「世界一キライなあなたに」は、明るく、それこそロマンティックコメディタッチで描かれていてはいるが、内容的には現代の社会での生き方を考えさせられるテーマではある。
予想通り、世間の反応は賛否両論となるが、この手の話題に正解はない。
映画をみて、何を感じるか?そのために見るだけでもよいと思う。
次にROME[ローマ]であるが、これは特にテーマが人生の最期の迎え方というわけではない。
しかし、史実とは別にして、そこで描かれる古代ローマの姿を通して、生を含めた人生観や何かを感じ取れる作品である。
過激な描写もそれなりにあり、おそらく苦手な方もいると思うが、みておいて、損はないドラマである。
いかに現代が、日本が、安全で、生命の危機から隔離された世界かを再認識できるドラマでもある。
生き方の意味への感覚
生命の危機が日常的に存在する中で、それを常に意識し恐怖を感じ続けることは難しいのではないか?
どこかで人間は、安定のために、それに鈍感になるのではないかとおもわれる。
もちろん、敏感なまま、押しつぶされて、おかしくなってしまうこともあるかもしれない。
しかしながら、ある程度において、生命の危機がいつ何時、理不尽に訪れるような時代には、人は生の最後直前まで、逆にそれに対して鈍感だったのではないか?
鈍感という意味は、生命が途絶えることを気にしないということではない。生命の危機を常に感じてはいるが、それ自体の意味を考える余裕はなく、いかに生きるかという意味に対して鈍感だったのではないか?と想像されるのだ。
そのような時代においても、一部の恵まれた人々、社会的強者は、生の意味、生き方を考えていたのかもしれない。
生きていること自体に意味があり、どう生きるかの意味が薄い場合には、人生の最期をどのように迎えるかという意識も、同様に薄くなっているのではないか。
現代の世界では、特に日本では一般的には安全が保障されており、生命の危機を日常的にあまり感じることはない。
そのように、安全がある程度保障され、生きていること自体の意味が薄れた場合、いかに生きるかということに重点が置かれてくるのは当然である。そして、自分が今、いかに生きているかということに敏感になるのだ。
そうなると、人はいかにして生を全うするかに対して考える余裕が生まれ、生命の危機というものに敏感になるとともに、いかに生きるか、どのように人生の最期を迎えるかについて考える余裕も出てくるわけである。
延命と生の終わりへの価値観と社会的・な意味
昔は本当に強いもの、恵まれたものしか生き残れなかったのである。
社会が発達し、それとともに医療技術の発展もあり、一部の病気では生命の危機を回避できるようになってきて、昔は自然淘汰されていた命が存命できるようになってきている。
それははたして人間の良心であるのか、欲望や傲慢であるのかは誰にもわからない。
人間の良心イコール、欲望や傲慢なのかもしれない。
人は皆、子供、家族の為なら犠牲を省みないことが多いはずだ。最近、例外のニュースが相次ぐが、非常に残念なことである。子供や家族は、人間が自己犠牲的になれる数少ない対象である。
実は社会福祉や、過度の助け合いが、全体的、継時変化的には子供たちにとって不利益になるとしたらどうだろうか?
色々な状況において、延命させることを重視するよりも、どのような人生の最後を迎えかたを整える方が社会的に良くなる可能性もある。
おそらく、子供たちの継続的な社会のためには、老人やその他の人を長生きさせることにお金や労力を使うよりも、老人やその他の人がどのように人生の最後を迎えるかを整えることにお金や労力を使った方が良いのではないかと思えることがある。
人間による社会構築の困難さ
現在のような豊かで恵まれた社会では、かなり慈善的福祉的なものが強くなっている。
社会の発展とともに、全能とは言えない人間による社会管理の歪みというものは、時代とともに、色々と生まれているのは確かである。
誰もが(人間が)安全に、平和的に生存する権利など、地球上にもとより存在するわけではない。
本来、権利というものは、この世界において歴史的にも、非常に儚いものであることは知っておかねばならない。
歴史的に人間の歴史は暴力の歴史である。この人類史上、非常に稀な暴力の少ない時代において、社会が求められているものは、福祉的にも、権利的にも、かなり複雑で質の高いものである。
そのような社会を維持していく、または発展させるということは、人間にとって、類い稀な努力が必要なものであることは間違いない。
それに関わる医師も複雑な立場となり、その問題に巻き込まれることがある。